國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」を読み終わったので、感想と概要を紹介するもの。
大変考えさせられる内容で面白い本だったので、興味を持ってもらえた方は本書を読んでみてほしい。
そういえば本屋では、又吉さんが推薦してたなあ。
概 要
本書は「暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか」という問いの答えを探すことを目的に、過去のさまざまな哲人達の主張を、引用できる部分は引用し、否定するべきところは否定し、著者の主張を書いたものだ。
著者は最終的には、「わたしはこういう風に考える、あなたはどう考える?」と、読者に考えることを望んでいる。その考えるための要素を提示するのが本書の目的ともいえよう。
登場する哲人はカント、ハイデガー、レオ・シュトラウス、ニーチェ、等々。特にハイデガーの退屈論に大部分のページを割いている。
その部分は本書の重要なポイントなので、しっかり読んだ方がいいだろう。
暇と退屈の違いとは
暇と退屈って何が違うんだろうか。似ているようで、違うような。
暇の反対は忙しい、退屈の反対は興奮。暇は客観的、退屈は主観的。
本書では、暇は良いもの、退屈は悪いもの、というふうに書かれていたと思っている。
だから、暇を退屈にしてはいけない。そのために暇を楽しむための知識を涵養するべきだと。
人類はいつから退屈しているのだろうか
人類が退屈を感じ始めたのはいつからか・・・・・・。
著者曰く、定住(稲作)が始まってから。狩猟採集の時代は移動を繰り返すため、退屈は起こらない。
定住できるようになったからこそ余裕が生まれ、それが退屈へと変わっていった。
現代では環境を変えるために、定期的に引っ越せって言っている著名な方もいるけど、それも人生を退屈させない一つの方法なのかな、とも思った。
その他面白かったところ
人間にとっての時間は18分の1秒の連続。それは映画のコマ割りでもわかっているらしい。そして、虫と人間の時間は同じではない。ダニにとっては、人間でいう1年は一瞬なのかもしれない。
退屈の3つの形態。退屈には3つの形態がある。人間らしい退屈である第2形態の退屈を生きていかねばならない。第2形態の退屈とは、「パーティーの最中にふと感じる退屈」であり、人間らしい生き方をしていれば、この退屈を避けることはできない。
環世界の話。狩人に見える森と、森林浴に来ている人に見える森は違う。ぼくはこの話は仕事や人付きあいの教訓になると捉えた。著者の意図とは違うかもしれないが。
人が持っている知識や、育ってきた環境で、同じ物、物事、状況を見ていても捉え方、感じ方は人それぞれだということだ。人の価値観は人それぞれということ。ゆえに他人を変えることはできない。そんな当たり前のことを、再認識させられた話だった。環世界という概念を知ったことで、そのことがより実感できた。
消費と浪費。人間は浪費(贅沢)をするべき。それこそが動物ではなく人間。食べるためだけに生きているのではない、芸術や音楽が必要。「パンだけではなく、薔薇を求めよう。薔薇で飾ろう」
感想まとめ
暇と聞いてまず思ったのが「小人閑居して不善を為す」の故事。
凡人が暇になると悪さするって意味だと思って、そういう結論になるのかなって予想しながら読んでいた。
前提が間違っていた。「小人閑居して不善を為す」って、「小人は独りでいるとどんな悪さするかわからない」っていうような意味らしい。君子は人が見ていないところでも態度が同じだと。小人が暇だとよからぬことを企むって意味じゃないみたい。独り暮らしの今、生活態度を改めようと思った次第であります。
とまあ、ぼくの教養不足はおいといて。
いろいろ面白い話が多い本だった。
著者の思いは本書を通読して、読者自身が答えを見つけること。
ぼくは単純に、「熱中できるものを見つけて人生楽しもう」ってことだと思った。
趣味、仕事なんでもいいけど、退屈せずに生きていきたい。