養老孟司・山極寿一著『虫とゴリラ』感想

文庫本情報

著 者養老孟子・山極寿一
発行人小島 明日奈
発行所毎日新聞社
発行日2022年11月5日
頁 数246

概 要

2大知性が語りつくした日本の未来像。未曾有の危機を迎えている人類を待つものは希望か、滅亡か。<虫とゴリラ>の目で、人間の世界をとらえ直し、自然との新たな共存の道をさぐる。「人間以外の自然とも感動を分かち合う生き方を求めていけば、崩壊の危機にある地球も、ディストピアに陥りかけている人類をも救うことができる」――話題のロングセラー待望の文庫化!

文庫裏表紙

興味を惹かれた部分

「山川草木悉有仏性」とは、一切のモノ、山も川も草も木も、命あるものすべてに仏性があり、すべてのモノは悟ることができる、という考え方。

人間は技術が手に入ると、やっちゃう。開発、戦争、工事。

日本人は「型」を重視する。茶道、華道、食事。型の中にさまざま表現があり、その型の中に入ると、いろいろなやりとりができる。想像力も発揮できる。身体と型はくっついている。型を学ぶとは「身につける」こと。精神性が形作られる。いいかげんに型を覚えても身体が入らない。格好だけではダメ。

明治以降、日本は西洋の型だけをまねてきた。それでも「和魂洋才」で魂は残してきたが、戦争ですべてなくなった。今の日本は中身がないということ。

人類は毛が短くなったと同じ時期に脳が大きくなった。毛繕いができなくなったので、違うコミュニケーションが必要になった。コミュニケーションには触覚が大事。触れること。タッチ、愛撫。

ペンフィールドのホムンクルス:顔や舌、親指が異常に大きく、奇妙な形のコビトの図で、大脳の運動野や体性感覚野に体の部位を対応させて描かれている。

情報化とは「個別の体験をいかに共有できる形にするか」ということ。その起源は「食べ物」。他人が持ってきた食べ物を分配する。

科学は、やることが決まっていて、手段も定められているけど、行き先がわからない。宗教は行き先は決めたけど、どうやったら行けるのかわからない。これは、確かにそうだと思った。科学の発展していく先には何があるのか。人類は制御することができるのか。

花粉症とかにならない子は、2歳くらいまで、母親と共に家畜小屋などに出入りしていた子。抗原ができている。現代の子は、過去の人々が触れてきたはずのものに触れない。

学習=自習 自ら学ばないと何も学べない。

世界には、意味がないこともある。意味を求めすぎない。

モノは信用がおける。なぜなら作動しなかったらそれは作った人が悪いから。モノはウソをつかない。人間は信用できない。「和魂洋才」の才はモノ、技術。

コンクリート建築は作った時が終わりで、木造建築は作った時が始まり。

シロアリの分封:分封とは巣分かれのこと。夕方にやるらしい。夕方は形がはっきりとしない時間帯。コウモリに襲われないように。

今はヒューマニズムの危機。「期待値」によって人の価値が決まる時代。「これからすること」によって評価される。あらゆるデータを分析して個人がこれから起こすこと、起こす可能性が瞬時にはじきだされる。まさにシビュラシステム。犯罪者になる「可能性」によって取り締まれる。

ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。変わるものと変わらないもの。

「プラネタリーバウンダリー」という概念を初めて聞いたので少し捕捉を。地球の限界を9つの指標で示したもの。

その9つとは、(1)気候変動(2)大気エアロゾルの負荷(3)成層圏オゾンの破壊(4)海洋酸性化(5)淡水変化(6)土地利用変化(7)生物圏の一体性 (8)窒素・リンの生物地球化学的循環(9)新規化学物質

この中で、「生物地球化学的循環」と「新規化学物質」、絶滅の速度からみた「生物圏の一体性」は、すでに限界値を超えているようです。限界値を越えるとどうなるか。不可逆的な変化、つまり、もはや元には戻らない変化が地球に生じる。ということらしい。

これ以上取り返しがつかないことがないように、人間活動をバウンダリーの限界内にとどめる努力を続けることが大切。地球には限界があることを知った上で、その限界の中でいかに成長していくかを考えよう、という前向きな概念。結構SDGSと関係が深いらしい。

地球が限界を迎えて、宇宙へ進出することを本気で検討しているが、それで本当に幸せになれるのか?人間の体が幸せに暮らせる環境は地球の環境。火星に住んで幸せか?

多様性を尊重する社会に工業化は向いていない。工業化は均一化のことだから。ある一定の基準を満たさないものは零れ落ちていく。その零れ落ちたものに価値があり、面白い

感想まとめ

日本の未来には、多様を活かした地域づくり、社会づくりが大切。また、自然から学ぶことが大切。日本にはまだ自然が残されている。その自然を大切にし、次世代に受け継いでいくことが、ぼくたちにできる本当に大事なことなのかもしれない。太陽光パネルで覆いつくされた山を見て悲しく感じる人はたくさんいるはず。